AIの限界を物理学が打破する
私たちは日々、予測困難な事象に翻弄されています。朝の通勤を阻む突発的な交通渋滞や、進路が刻々と変わる台風の脅威。こうした複雑な動態を予測しようとする際、従来の人工知能(AI)はある決定的な壁に突き当たっていました。それは、精度の高い予測に「膨大なデータ」を必要とすること、そして何より、AIが物理的な制約を無視した「現実にはあり得ない解決策」を提示してしまうという点です。
従来のAIは、例えば渋滞中の車が隣の車線へ瞬間移動したり、嵐が突如として消滅したりといった、物理法則に反する「幻覚」を見ることがありました。カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)の准教授、ローズ・ユー(Rose Yu)氏はこの課題に対し、「物理学主導のディープラーニング(Physics-guided deep learning)」という革新的なアプローチで挑んでいます。
これは、ニューラルネットワークの中に質量の保存やエネルギーの法則といった「世界のルール」を直接組み込む手法です。物理学という制約を与えることで、AIの探索範囲を現実的な解だけに絞り込み、より少ないデータで、より正確に現実を模倣させることが可能になります。
渋滞予測を15分から1時間へ

ユー氏がこの分野の先駆者となったきっかけは、2016年、南カリフォルニア大学(USC)の大学院生時代に直面したロサンゼルスの深刻な交通渋滞でした。彼女は道路網を流れる車の動きを単なるデータの羅列ではなく、一つの「物理現象」として捉え直したのです。
具体的には、交通の流れを「拡散」や「流体力学」の法則に従う流体のようにモデル化しました。ここに数学の「グラフ理論」を融合させ、交通センサーを「ノード」、道路を「エッジ」と定義。道路ネットワークをグラフとして構造化することで、ある地点の渋滞がどのように周囲へ「拡散」していくかを、物理的な整合性を持って再現することに成功しました。
ディープラーニングは当時、画像分類などの応用で非常に盛り上がっていましたが、画像は静止したものです。私は、物事が絶えず変化し続ける問題に対して、ディープラーニングが役立つのではないかと考えたのです。
この試みは、計算科学のパラダイムシフトとも言える成果を上げました。従来の技術では信頼できる予測は15分先までが限界でしたが、ユー氏の手法は1時間先まで精度の高い予測を可能にしたのです。このコードは2018年にGoogleマップに採用され、彼女自身も後にGoogleの客員研究員(Visiting Researcher)として招聘されるなど、その専門性は世界的に高く評価されています。
気象シミュレーションを1,000倍速にする

次にユー氏が挑んだのは、気象モデルにおける最大の難問の一つである「タービュランス(乱流)」の計算です。
コーヒーにミルクを混ぜた時にできる渦から、数千マイルに及ぶ海洋の渦まで、流体の乱れを記述する「ナヴィエ・ストークス方程式」の計算には、膨大な時間を要します。従来のスーパーコンピュータによる力技(数値シミュレーション)では、ハリケーンなどの急激な変化をリアルタイムで捉えるには遅すぎたのです。
ユー氏は、AIに最高精度の数値シミュレーションを学習させ、そのパターンを「エミュレート(模倣)」させる手法を開発しました。AIは複雑な方程式を逐一解くのではなく、データに潜む物理的なパターンを瞬時に認識します。その結果、2次元の設定では従来の20倍、3次元の設定では実に1,000倍という驚異的な高速化を実現しました。これは、将来的に巨大な気候モデルに組み込まれ、ハリケーン予測の精度を劇的に向上させる可能性を秘めています。
データの背後にある「対称性」をAIが自力で発見する

ユー氏の研究は、既知の法則を教え込む段階から、AIが未知の物理法則を発見する段階へと進化しています。彼女の開発したアルゴリズムは、生データの中から物理学の根幹をなす「対称性」を自ら発見し始めています。
例えば、光速の不変性に関連する「ローレンツ対称性」や、物体を回転させても性質が変わらない「回転対称性」などを、AIが事前の知識なしに特定したのです。対称性の発見は、AIが学習データを超えて未知の状況へ適応(汎化)するための「聖杯」とも言える重要なステップです。現在、彼女のチームは数値、テキスト、画像、動画といった多様なデータを横断的に扱う科学のための「基盤モデル(Foundation Model)」の構築を進めています。
彼女はこの構想を、科学的発見のプロセスを支援する「AI Scientist(AI科学者)」と呼んでいます。
AI Scientistとは、科学的発見の事実上のすべてのステップを支援できるAIアシスタントを意味しています。例えば、大規模言語モデルなら、昼休みの間に数千冊の本を読んで要約することができるのです。
AIがデータの海から新たな対称性を見出すことができれば、それは人類がまだ到達していない、科学的な大発見への扉を開くことになるでしょう。
ドローンから核融合まで

物理学を理解したAIの恩恵は、予測だけに留まらず、現実世界の複雑なシステムの「制御」にも波及しています。
ドローンの制御においては、離着陸時にプロペラが起こす地面との干渉乱流をAIでモデル化することで、機体の揺れを抑えた精密な飛行を実現しました。さらに、次世代のクリーンエネルギーとして期待される「核融合発電」の分野でも、ユー氏の技術が注目されています。1億度を超える高温のプラズマを制御するには、従来の物理モデルでは計算速度が追いつきません。ディープラーニングを用いることで、プラズマの挙動を瞬時に予測し、ミリ秒単位での制御を可能にするモデルの開発が進んでいます。
数値シミュレーションでは時間がかかりすぎる領域で、AIによる「瞬時の判断」が物理的な限界を突破しようとしているのです。
AIは研究者の「パートナー」になる

ローズ・ユー氏が描く未来において、AIは人間の科学者を代替する脅威ではありません。むしろ、両者は「共生的な関係(Symbiotic relationship)」へと進化していきます。AIは、膨大な文献調査や単調なデータ処理といった「退屈な作業(drudgery)」を肩代わりし、人間が最も得意とする「創造性」や「直感的判断」に専念するための環境を整えます。
物理学の厳密さとAIの圧倒的な処理能力が融合することで、これまでは計算不能だった宇宙の複雑な仕組みが、少しずつそのベールを脱ぎ始めています。
AIが物理の法則を完全に理解し、人間の創造性と手を取り合ったとき、人類はまだ発見されていない宇宙のどのような秘密を解き明かすことができるでしょうか。その探求は、いま始まったばかりです。

